熱河討伐経過概要 附録・米国通信員の観たる熱河作戦 /陸軍省調査班1930年

熱河討伐 經過概要

一 序言

「滿洲國建國以來正に一年を迎へた、此一年は滿洲國の悠久なる其前途より觀れば洞に 創業早々の一瞬に過ぎないのであるが、建國本来の使命たる滿蒙午和建設事業の先騙た るべさ兵朗掃蕩事業は幾多の障害を排除しつ、著々として進展し、本年に入り既に滿洲 國の大部分の掃眠を終り、残るは熱河省のみとなった、抑。熱河はもと滿洲國の一部た ることが顯著なる事實なるに拘らず、張學良等反滿工作の巣窟となり偽勇軍操縦の本據 として利用し水りし所たるのみならず、昨年末よりは其正規軍すら侵入せしめ以て首風 兩端の湯玉麟に最後の反滿決意の臍を固めしめ、且支那國民黨等の抗日後援會の援助と 相俟って相當強力なる抵抗あるべきを期待せしむる情勢にあつたのである。此を以て滿 洲軍は自國內の禍根の一掃を策して熱河討伐を行い、帝國亦日滿議定書の精神に依り之を助けて關東軍の蹴起となつたのである。 

かくて二月下旬日滿協同作戰の開始せらるいや、疾風迅雷耳を覆ムに暇無き神速果敢 なる皇軍の活躍により、旬日ならずして熱河の中裾たる承德赤峰の陷落となり、二週に して早くも萬里の長城に日章旗を掲げ、熱河作戰は弦に一段落を告ぐるに至つた、以下 討伐経過の概要班共影響に就さ若干記述すること、する。 

ニ 討伐直前の友滿軍の情況 

熱河省内及北支反滿軍の情況は二月四日當班發表の「滿洲の掃朗と治安の狀態」に概ね 悉しあるも、左に其後の情勢變化等の概要を掲げる。 

熱河省內の反満軍は二月中旬には總計約十三萬五千に達し、武器弾薬の補給糧林の補 充等戰闘準備に熱中してゐた、共兵力の內譯は左の如くである。

湯玉麟正規軍20000
湯玉麟自衛軍12000
馮占海軍15000
鄧文軍6000
李海青軍3000
劉震東軍 2000
馮庸軍3000
其他の雑軍13000
孫殿英軍20000
沈克軍8000
學良正規軍(歩五師/騎一旅)33000

而して第一線抵抗陣地を概ね開魯興隆地を經て朝陽に亙る線とし主として偽勇軍を配 置し、第二線は赤峰より凌源を經て北章營子、乾溝鎮に夏る線とし、之を主抵抗地帯と して主力を配し、第三線は承德附近に設置された。

又山海關方面は最前線に學良正規軍(步三師、騎二旅)二萬四千を配置し、第二線藻河 右岸地區一帶に雑軍たる商震の率ゐる一萬六千泣宋哲元軍四萬計八萬の大兵を備へ、何 第三線たる北不附近には學良座下の軍隊二萬五千の外飛行機約二十、高射砲十數門を準備した。

三 討伐經過概要

一 日滿軍の情況

イ 行動開始より赤峰承德占據迄

關東軍は滿洲國軍と緊密なる連絡を保持し、二月上旬より諸準備に著手しついあつた が、二月下旬に至り、各方面とも行動を開始した。而して關東軍司令官は、左記の如 き宣示を發して關東軍の態度を明かにした。 

滿洲建國茲に一周年、內諸政革り群ッ剿討せられ民衆和牛に樂女んとし外日滿の親 善敦厚を加へ刻國は聯盟の名において滿洲國獨立承認を政治的に回避するの傾 向あるも新國家の現實的成立に関しては經濟的において事質上誤解するのやむを得 ざる現勢にあり、此の秋に當り獨り熱河省の疆域のみ舊態依然として軍閥の跋扈に 委し、調賊改た跳梁し加之北支政權の軍隊案りに省内に侵入し今や同地方の住民は 苛斂誅求に生色無くも熱河混亂の餘波は全滿民心の安定を阻得すること些少にあ らす、事態かくの如さを以て今次滿洲國政府は其國軍をして大、熱河省の粛清を斷 行せしむることなれり、惟ふに同省が滿洲國の疆域たる事實は同省の地理的位置 と悠久四千年の歴史とに鑑みはた又滿洲建國の宣言に明微せられ寸毫の疑義を挑む べからず、換言すれば今回の事たる滿洲國の為には單なる國內問題を解決するに過 ぎざるなり、軍は日滿親善の精神に基さ如上滿洲國の崇高至當なる行動に對し滿腔 の賛意を表し所要の兵力を以て協同事に衝ることなれり、從て軍はその實力行篇 を滿洲國領域外に脱逸せしむるが如きは断じて好まざる所、然れ共北支政權にして わが軍に對し積極的質力行動に出づるが如き場合においては戦渦巻いて北支に及ぶる女たやむを得ざるべきは何人と雖8首肯し得る所にしてその責任のかれに屬すべ さまたもとより當然なり、これを要するに軍の庶幾する所は滿洲國の健全なる發達 と東洋全局の和牛にあり、ここに熱河の事起るに當り如上の主旨を中外に宣明し以 て公明正大なるわが關東軍の態度を鮮明ならしむ

昭和八年二月二十五日 

關東軍司令官,武藤信義

一 茂木部隊は二十三日通遼附近を出發し、二十四日には開魯に進人、爾後李海青軍を騙遂しつ二十六日夕一部を以て下窪附近に在りた碼占海約一萬の偽勇軍を撃退し直に同地を占據した。 

主力は更に興隆地より西進を繼續し誕賊を追撃しつ三月二日の未明赤峰東方高地 に進出し、同地を占領せる敵を撃退して午前十一時早くも赤峰に日章旗を掲げたのである。 

二 坂本部隊の大部は二十三日主力を以って通遼を、一部を以て彰武を出發し、折柄の 猛烈なる吹雪と零下二十數度の酷寒を冒して強行軍を行い、二十七日には其先頭下窪 に到著し更に憩ふ暇なく、數千の敵を騙遂しつ二日夕闇迫る頃既に其挺進部 旗を演烈たる寒風に響して軍容堂々赤峰に入城し民衆は歓呼して之を迎へた、何坂 部隊の一部たる松田支隊は、二十三日朝陽寺を出發し朝陽を経て三日建不を占據、四 日には黑水附近にて陣地を占領せる約二千の兵’と激戰を交へ、遂に之れを西方に潰 走せしめて五日赤峰に入りそこにて主力と合するを得た。

三 西部隊の一部は、二十一日敵の機先を制して先づ北票を占據し、續いて三縦隊を以て義州錦州方面より前進し、途中朝陽東南方地區一帶の高地の既設陣地に在つた學良正規軍の頑強なる抵抗を排除し二十五日には朝陽に進入した、此所で一たん態勢を整へたる後、三月一日進發したが中に~川原部隊の挺進隊は疾風の如く急進し二日には 凌源を占據し、三日には早くも中泉に進入し破竹の勢を以て息をもつかすに西進し四日早朝承德郊外に達した。

而して午前十時頃より承德東側高地の敵を撃破し、午後二 時五十分には市民大歡迎裡に人城式を行ったのである。之より先、古北口方面に雪崩 を打つて潰走中の敵は、我が空中攻撃により殆んご殲滅的の打撃を蒙って南方及西方 に潰走した。

四 服部部隊は二月二十六日絞中より行動を開始し二縦隊となりて前進したが、山岳重 量の険峻と正月以來構築せる既設陣地との為、相當の苦戰をせざるを得な かつたが、 沙帽山、白廟子の堅量も遂に之れを突破し、續いて北章營子を奪取し其先遣米山部隊 は二日正午凌源に到著し、引き南進し石橋子の敵を撃破して冷口に向つた、何鯰江 部隊は北章營子より主力に別れ、其南方喇嘛洞附近にて數倍の優勢なる學良正規軍と 數日間交戰し以て主力の行動を掩護した。

五滿洲國軍中張海鵬將軍の率ぬる洗遼軍は二月二十五日開魯に滿洲國旗を翻へし、次 で三月一日より行動を起し所在の朗城を掃討しつ、九日には司令部は赤峰に入った。 

其他李壽山軍、程國軍、丁強軍も逐次皇軍の背後を掃重しつ、前進中の模様である。

口 爾後萬里長城の線に進出迄! 

一 坂本部隊より編成せる高田支隊は四日赤峰を出で途中敵を撃攘しつ、六日圍場を占據し、何茂木部隊と協力し附近の掃囲に努めたが、九日市倫附近にて相當の激戦がわ り孫殿英軍に多大の打擊を與へ之を西方に擊展した。。 又殘敵が集團しつこありと稱せられた鳥丹城九日夕途に我有に歸した。

二 承德を占據せる川原部隊の一部は、四日夕藻年に入り七日より川原部隊の主力と共 に長山崎(古北口東北方約七里)附近の堅固なる敵陣地を攻撃し、激戦を交へつく 長城の線古北口に追いつめ十日午後二時三十分同地を占領し、爾後優勢なる學良軍及 中央軍を撃退して十二日には全く古北口一帯の要地を領有するに到った。 

三 喜峯口は服部部隊の勇敢なる行動に依り九日夕之を奪取するを得た。併し此方面は荷敵の逆襲が相當續けられてるる。之れより先米山部隊は凌源より快速なる行動により南進し、石橋子の敵を騙逐して、 四日には早くも長城冷口に日章旗を掲げ後更に長城董家口方面に轉進し十日同地を占據した。

四 軍の總豫備として奉天に待機中なりし中村部隊は二月末頃校中附近に移轉し、一般 の部隊と稍、遅れ愁中より作戰行動を起し、二縦隊を以て乾溝鎮の要害に向つたが、 九日には同地を陷れ直ちに南下し、長城の界嶺口を猛攻して十五日遂に之を攻略した 又東方義院口の要點は十三日既に我有に歸した。 五 關東軍司令部は武藤大將始め主腦部三日錦州に馬を進めて親しく戰線を統率し士氣 を鼓舞しつあつたが、既に長城の線迄進出し作戰の一段落を見んとする情況となつ たので、十一日夕目出度く新京に歸還した。 何十六日迄の調査に依る熱河作戰關係戰死傷者は、左の如くである。 

戰死10名 戰傷二七一名 計三八九名

二 反満軍の情況

一 熱河省內

熱河省內の中堅陣地として自負せし、赤峰より凌源を經て乾溝鎮附近に反り守備しつあつた學良正規軍四箇師斑湯玉麟軍の二箇師は、第一線たる偽勇軍李海青、満占海、 馬庸等の支離滅裂の敗退振りに怯へ、風聲鶴吹申譯の抵抗の後北方に在りし孫殿英、石 文華、高春軍等は概ね熱河省西境近くに凌源以南の者は承德冷口方面に退却した、之 れを見た湯玉麟。戰はずして既に戰意全く消滅し、風を望んで潰走し承德を棄て行 方。知れずなつた、之れを知つた學良故蒋介石一派は愕然として一時は途方に暮れた と共に、熱河喪失の責を湯玉鱗に負はせ之に極刑を科して嚴重なる逮捕令を下した。 

熱河省內には何敗殘の兵腫所々に残留しあり、殊に熱河西境に近く豐寧附近に逃げ延 びたと稱せらる/湯玉麟軍あり、赤峰西北方地區には売占海、孫殿英等の敗殘軍集團 しあって、北支より多倫を通じて物資を補給しつこわる模様であるから、これからの 掃庭には雪解けの爲めの後方連絡の困難と相俟って、今迄の花々しき作戰と異り當分 多大の苦心と努力とを要するであらふ。 二 北支方面 學良は熱河の敗報頻りに傳へらるいや、少くとも長城の線を固守すべく最後の努力を なさんと、夫、長城の線の確保を命じたるる、雑軍は自己保存に没頭しひざ~日滿 軍の標的となるを欲せざるもの如く、宋哲元の如一部を漸く使用するに決した が、主力は長城の南玉田及三河の線を固守して居る様子である。 

商震軍は日満軍の山海關方面及海洋方面よりの進出を極力警戒しつ、依然主力は 寒河の線に位置して居る模様である。

山西軍の一部は 抗日と云ふよりは寧ろ火事泥的に、張家口より或は古北口方面に、或 は熱河西境に近さ多倫方面に進出し、地盤擴張に努めて居るもの如くである。 茲に留意を要するは中央軍の北支進出であつて、既に二箇師は北上し、內一箇師は 既に古北口方面に使用せられたこと確實である、是れ蒋介石は一は北支諸軍の督戰に 任せしむると共に、豫想する各種の北支動搖混亂に備へんとの顧慮に基いたものと謂 はれて居る。 

斯くの如き情勢の裡に學良は、蒋介石の為詰腹を切らされ、途に下野して一先づ上 海に落ちた、蒋介石は直ちに何應をして學良に代り北方諸領將を統一せしめ、一方反 蔣派の策動に懸念して、猫も長城の線に向ひ抵抗を持續している。而して彼等の報ず る戰況は、例の荒唐無稽の獨特の宣傳であつて、服部部團の二聯隊は全滅し大砲二十 數門を鹵獲し、服部部團長は戰死した等と壽府あたりに誇大の報道を放送してある。 

四 結言

今次作戰の目的れる熱河継略は、行動開始以来二旬を出でずして既に兵涯を熱河省外 即ち萬里長城の線以外に騙遂し得、茲に熱河討伐作戰の一段落を劃するに至つたことは 真に世界史上に輝しさ業績を遺したものであつて、今後は同省內に残留する小頭賊の掃 蕩と共に、滿洲國は住民の渇望しつある平和的建設に向って最善の努力をなす段取り となるのであるが、故に注意を喚起して置きたいのは北支の情勢である、熱河省土著の湯 玉麟は既に逃亡し北支當面の責任者たる張學良は下野したもの、蒋介石は中央軍の敷 師を既に北上せしめ、何應欽を派遣して北支各軍の指揮に任せしめて居る、之等は勿論雑 軍に對する督戰の為返に北支反將策動の對應策といふことも含まれて居らうが、之等軍 隊の妄動は假かそれが北支の彼等の地盤擴張策故に戰闘に依る雑軍自滅促進策たるにせ よ、勢の赴く所遂には滿洲國の熱河治安確立に對する直接妨害となり、之れが禍根支除 の驚日滿軍の不津進出を餘儀なきに至らしむるの庚大となる、斯くて日滿兩國が専ら事 態を不津に波及せしめざることに努めつ、あるに拘らず、不幸彼地を戰亂の巷に化する 場合があつたならばそれは正しく總て彼等の責任たるべきこと理の當然である。 

支那軍閥乃至は爲にせんとするものは反滿抗日を今だに標榜しわるる。今次作戰間南 支方面及長江沿岸は極めて不穏であつて。

始んご新たに排日貨等の策動の模樣無さを觀 ても、最近支那國民の真意が那邊にあるかを察せられるのである、今にして彼等軍閥が 目ざめるにあらざれば、極東の事態を盆、紛糾せしめ東洋平和を擾亂するの根因を繁く するに至るは素よりのこと、支那人の為にも支那に散在する各政權の為にも共不利を増 するので自ら墓穴を掘ると一般であり、惹いては白人をして聴するの隙あらしむるに至 るは自ら明である。

次に熱河作戦に關聯して起つた世界の反響を檢討して見れば、徐り にも豫想に反した支那側の意氣地無き敗報は、満洲事処以來支那側の空宣傳にみんと 乗せられて 事毎に騒いでゐた列國は、始めて全然荒唐無稽の宣傳家たるに過ぎない支那 の真想を見せ付られて、帝國聯盟虎退と共に漸く反省し始めたではないか、英國の一度決 定した極東への武器輸出禁止め有耶無耶の裡に取消し、或は聯盟最後の日支紛争勧告に 基き成立したる諮問委員會の最近の會合に於てる、熱河に關しては何等問題にして居ら S點等此邊の消息を如實に示して居る。

支那の期待していた熱河問題に關聯する列國の 反日輿論喚起は全く水泡に歸したのみならず、却て從來支那側の柱げて主張し來った滿 洲に對する宗主權すら疑い出した結果となり、列國る漸く真の認識に立歸らんとしてるる。 

遮莫帝國の今後の執るべき行動には何等の變更を必要としない、、國一致の既定の方 針に向ひ進すれば足る、即ち、國民の結束を堅持して內國力の充實を圖ると共に、只管滿洲國平和の建設へと驀進すべきである。今更に周圍の些細の事情の変化に右顧左 晒する必要はない、斯くして、東洋不和の確保は現在帝國の信念として執りつある 動を措いて外無き實情を、隣人は勿論列國真に理解共鳴し來る時期は、蓋し遠くは無いであらう。

附錄 米國通信員の觀たる熱河作戦 皇軍の作戰を歎賞す 

熱河戰況に關するユービー通信員イーキンス通信

余は今北平に戻った所であるが、熱河省滞在十一日の間に於て、余は支那側の行政機關、故に軍事組織が崩壊し、それに代つて滿洲國政權が軍事的の正確さと敏活さを以 て、疾風迅雷的に樹立されるのを目撃した。 「余は一畫夜の間に、先づ退却中の支那偽勇軍に遭遇したが、彼等は再び眠賊にならん との望を抱いて、西方察哈爾省へ逃亡しつあつた。彼等は、同じく眠賊に立ち還へり つある湯玉麟の敗残兵に後れずに、跳梁掠奪の好適地と目指す多倫諾爾に、到達せん

と希望して居た。 

余は次で二萬五千を算へる孫殿英軍に遇ったが、彼等は眠賊の武器、軍需品等を掠 奪される前に、張家口に到達せんことを望み、赤峰隆化の間に於て、多少なりとも秩序 を維持せんと努めて居た。同日余は又北西へ向け退却中の湯玉麟軍の主力に遇った。 「次で、余は丁度日本軍が、川原將軍の下に流血を見ずに承德府を占領したのと、時を 同うして同市に 入った。承德府にて夜を明した後、余は自動車にて古北口経由北本へ向 つたが、承德府の南方十八理の地點にある鞍子嶺に於て、一時的に塹壕に防備を固めた、 湯玉麟護衛兵殘黨の間を通過したが、彼等は恐怖に騙られ、日本軍の襲撃を恐れて居る、 余は合衆國公使館附陸軍及海軍武官補佐官、故に米國人著述家にして蒙古事情通なるオ ウェン、ラテイモア、を含む余等の一行に向つて發砲した。支那軍は、山頂より迫撃砲 にて射撃したが、彈丸は余等の自動車より二百呎離れた所で爆發し、續いて小銃數十發 を發射したので、實に危く負傷を免れた。

余等は釋明を聞き之を了承した後、丸太や岩石を以て塞がれた峠を越えて古北口へ向った。 

此處で余等は、四千人よりなる張學良の第七旅が、長城外側に移動しつあるのに遭 遇したが、其時既に日本軍飛行機は、一刻も速に支那軍の長城外進軍を思い止まらせん として、此の附近を爆撃して居た。 

第七旅の次に、砲兵第六聯隊、次で第十二旅を認めたが、此等の軍隊は、日本軍と戰 ふ為ではなく、實に熱河內の敗殘兵が支那本部に道入するを防止する為に古北口に向い つあることが判った。又察哈爾省境に軍隊が派遣せられたが、之は熱河の防禦を企 てることすらなかつた。兵士が表面上支那の統御下に在る支那北方の地方に、進入蹂躙 するを防ぐ為であつた。 

今回の旅行は、厳寒の候最大の困難を冒して為されたものであつて、斷へず敗残兵が 發砲し、又は自動車を掠奪しはしないかとの危険があつた。 

規律ある武装軍が交戰して居るのならば、兵火を意とするものではないが、四日間全然外界との通信を斷ちたる後、再び敗残兵の充滿せる道路上の困難を經驗するは、御 免であつて、彼等は到る所で、糧食を奪い、無防禦の村落を掠奪し、侵入者と言ふ日本 軍に向つては、到底發揮し得ない様な暴勇を、婦人や小兒に對して振り廻した。 「余は局外中立であつたが、日本軍が住民の意志に反して攻略中であると信じて、熱河 省へ往つたものだ。

然し熱河省の全住民が、外國人たる日本軍を歓迎して居るのを、確 認して歸りて来た、彼等日本軍は、住民を不法な課稅や壓迫から救い、且つ貧しい商人 や百姓、労働者等の生活を、向上する不和と機會とを與ふることを約した。 

三月四日以前に於て、自分がピストルを手にしながら、少くも一晩を過した大きな町、 即承德、凌源、平泉、隆北、圍場等の人々は、今にも自分達の軍隊が。掠奪をしはしな いかと云ふことを紹へす恐れて居た。

所が日本軍が、豫定より早く襲來し、無抵抗に父 掠奪の暇もなく支那軍を撤退せしめると、街路上には、忽にして嬉々として語り合ふ群 集が溢れて居た。

承德では、川原將軍が古い寺院に圍繞せられた宮殿内に、落付く迄と 云ふものは、承徳の街路又は戸口に婦女子を認めなかつたのであつたが、日本軍占領後 二時間以内に、滿洲國旗及日章旗が各建物に飜へるや、老幼男女は自由に街上を右往左 往して居た。 

七年の長きに反り、銃剣に依つて税を徴集し、舊式軍閥の暴政に對して聊かたりとも 不満を減らせば、劍に依つて之を壓迫した湯玉麟、及其部下が逃亡した時には、熱河省 民は上下を、げてはつとした。 

湯玉麟が其の逃亡直前、余に向つて彼及其の軍隊は「死ぬ迄戰ふ旨を語ったと同じ部 屋で、余は物静かな武人らしく、真面目にして紳士的な、川原將軍と會談したが、同將 軍は貨物自動車運轉手及機械工を含む千名の部下を引率して、朝陽を出發し、日々小戰 闘を交へつ、死者三名、傷者五名を出したのみにて、三日牢の間に承德府へ到達したの であつた。 

川原將軍は、余に對して真面目に、「人命を損傷せずして熱河を占領するを得ざりしを 遺憾とする」旨を語つた。 「天皇陛下に就て申上ぐる度毎に、踵を合せ肩を張て姿勢を正す川原將軍は、支那人の 生命の損傷も、日本人の生命の損傷と同様に之を悲しむ旨を余に語つた。

右は如何にも 左樣信じられた。彼は何れの戰闘に於ても、機關銃射擊及步兵攻撃に出る前に、支那兵 に對し充分退却の機會を與へた旨を語った。 

河野少佐が裝甲自動車に搭乗し、百二十名を引率して承德府の一番乗を為し、逃げ後 れた五千の支那兵と遭遇した時、少佐は射撃を中止し静かに彼等に向つて武器を捨て不 和的建設事業に歸れと諭したのであつた。 

之等の事實は、日滿兩國旗が日本軍に依り配布せられたのではなく、支那商業會議所 自身に依り配布せられたこと、同様、余が正しく目撃した所である。而して商業會議所 は、陰謀なき政府の下に生命の安固を保證さ れ、即決の處罰や追放の憂なく、商業取 引を行ふ機會を保證されて居る。余は日本が、條約若くは國際關係に於ける欧米流の見解に依る方式を探ると否とに拘らず、熱河省民の利益を増進するが如き法令を出すも のと信する。 

熱河占據に於て、川原將軍は是れ戰爭にあらずして平和運動なりと述べられたが、實 際日本 支那人以上に支那人を理解して居ることを明かにした。日本軍は、熱河作戰術よりも支那人の心理に關する智識を利用した。 土曜日夜、承德市民は、日本軍に菓子等を贈った。土曜日夜、日本兵は自ら携帯品必 要品を運搬し、各自の宿舍を掃除し、又一般住民に對する取扱は頗る鄭重を極めた。

川原將軍は軍事上の必要による飛行機の操備的爆擊の爲、市民に死傷者を生じたことは認 めたが、朝陽より承德に進擊する間一般住民には全然犠牲者を出さなかつたことを、得 意氣に宣言し證明した。

– 日本軍の通過せる地方に於ては、一家たりとも一商店たりと焼却されたものはな い。承德市外に於ては、余は爆彈に依り家屋に損害を受けた一支那農民と語ったのであるが、彼は嬉しげに爆彈落下せる際支那兵が家屋内に隠れて居たから爆彈の水たのが嬉 つたと語り、「あの兵士達が遁げ去つて嬉しい日本軍が湯玉麟を敗走せしめたのが嬉し い」旨を述べて居り、又チェンユァン及不泉在住の基督宣教師にして、熱河に在 三十餘年なる者は、住民が日本軍を救助者として待ち受けた旨を證言した。

此話を何故 したかと言ふのは全く宣傳ではないからだ。實に此話は、單に熱河省の實情を真先に觀 ようとして自分の生命を暗して見聞した不偏不黨の觀察の結果である。日本軍の熱河省 占據前四週間、余は恐れ戰いて逃げ出す無數の避難民と話をしたことがある。 

彼等は何れも日本軍は、野蟹だと言ふことを聞かされて居た、彼等は戰爭と新政権を 恐れて逃げたものである。 

家を失い家族が散り散りになつた支那一般民衆に関しては、心から御氣の毒であるが、 熱河省に踏み止つた人々の前途には、洋々たる希望の光が輝きかけたことは余の深く信 する所である。余は帝國主義者ではないが、熱河省の支那人は、自ら政治をやり得る樣 に進歩する迄。日本軍の指導に依り統治せらる方が、利己保身一點張の軍閥や、其走狗に支配せらるよりも宜しからうと思考する。

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